主の愛 M・H姉

 主に愛される為には一体どうしたら良いのだろう。どうすれば主の御心に叶う事が出来るのだろうか?
 多分クリスチャンなら誰でも一度は突き当たった壁ではないでしょうか。それでは聖書に書かれている様に出来る限り多くの人に福音を伝えよう、そうすれば主に喜んで頂ける筈。
 でも果たして、私が福音を多くの人に伝えたら、教会の為に出来得る限りの奉仕をしたら、困っている人がいたなら、飛んで行ってすぐ手を差し伸べる事が出来たなら、それで本当に主の御心に叶う者となれるのでしょうか。
 主は私が罪の中にいた時も愛していて下さったのではなかったでしょうか。それは私が主を愛するずっと以前から、私がまだ主の存在をも認め得ない時から、 そしてその愛は一時的な感情に流されるものではなく、決して薄れてゆく事のない愛なのです。私が信仰を持って主を愛し、主に信頼し救われた後も、軽薄な行 動や言葉、又間違った考えで主を悲しませた事も多々あったでしょう。それでも主は決して私を見捨てる事無く、いつも暖かく見守っていて下さったのです。私 の人格全てを含めて私そのものを愛して下さったのです。
 他人の欠点に目がゆくのは簡単です。一緒にいて心地良い人、又話しをしていて楽しい人、優しい人を愛することは容易に出来ます。でもそれがもし気難しい 人、自分勝手な人、ましては犯罪者等であったらどうでしょうか?心からその人を愛せるでしょうか。愛する努力をも怠るかもしれません。
 でも主は心から愛して下さっているのです。それは人知を超えた愛です。
 全く汚れの無い尊い主から見れば私も罪人であるのには何もかわりありません。それでも私の良いところも悪い所も、自己中心に生きてきた過去も全てを知り 尽くしても尚、心から愛して下さっているのです。私がどんなに主を愛しても主の愛にかなわないかもしれません。でも私は感謝の中、信仰を持って主を愛すの みです。
 エペソ人への手紙2章8節9節「 あなたがたは、恵みの故に、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇 ることのないためです。」私の行いが私を救ったのでは、ありません。私の働きが神に愛されている理由ではありません。只、私は今神に愛されている喜びと幸 せに満ち溢れています。この喜びをまだイエス様を知らないでいる人々にも是非伝えたい。この思いが私を日々の主への感謝と祈り、そして主に使って頂ける者 として導いているのです。そして主に頂いた喜びというのは、どんな試練の中にあっても、逆境にあっても決して失う事のないものなのです。この喜びを一人で も多くの人に伝えたい。ローマ人15章29節「あなたがたのところに行く時は、キリストの満ち溢れる祝福をもって行く事と信じています。」まだイエス様を 知らないでいるあなたにも主の愛が届きますように。