イースターについて ブルース・エドワーズ牧師

 なぜイースターを祝うのでしょうか。
 キリスト教会では四つの祭りがあります。クリスマス、イースター、ペンテコステとイエスの昇天です。イースターと言うのは、イエス・キリストの死と復活 の祭りです。「イースター」と言う言葉の由来と、この言葉をキリスト用語に取り入れられたことについての論争は、まだ続いています。
 しかし、一番大切なことは「イースター」は、常に命が死に打ち勝ったことを意味しているということです。この原理は自然界に見られます。冷たい死のよう に寒い冬の後に、新しい命が生じる春がやってきますね! キリスト教会の中にある教派では、イースターを始めどのイベントも守ってはいけないと主張してい ますが、実際、世界中のキリスト教会が祝っているので、その理由を調べてみるべきではないでしょうか。
 イースターの意味と意義を知るために、イエスの死と復活が起こった頃に生きた人たちは、どのようにそれらの出来事を見たかよく調べる必要があるでしょう。使徒の働きの書では、ペンテコステの日に使徒ペテロが、説教の中で次のような言葉を述べています。
 2章22節から24節です。
「イスラエルの人たち。この言葉を聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行われま した。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計 画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえ らせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」
 24節の中の言葉に注目してください。「ありえない」NOT POSSIBLE.何と力強い言葉でしょう。イエスが死ぬことはありえないとは書いてあり ません。事実、イエスが十字架につけられたことは、神のご計画でした。罪から救われるようにイエス様が死ななければならなかったのです。十字架上でイエス 様が、私たちの身代わりになって罪に対する刑罰を受けてくださいました。ところが死からいつまでもつながれていることは、ありえないことでした。同様に、 イエスの復活も私たちの救いには必要でした。
 普通、「ありえない」、不可能と言う言葉は、自分より強い動力や力に降伏すると言う意味です。またある目的や計画に挫折すると言う意味です。その反対は、将来が確実になることです。
私が13歳の時に、クイーンズランド州を代表するサッカーチームを2チーム選抜したのですが、私はその一つに選ばれました。1956年にメルボルンで行われるオリンピックを前に、全国サッカー選手権に出場する予定でした。チームの名前は、一つは[possibles / ありうる]と言う名と、もう一つは[probables /ありそうな]と言う名前でした。私は、[possibles]チームに入りました。
 しかし、[possibles]と言うチームに入っただけで、クイーンズランド州のチームに選ばれる保障はありませんでした。体力とサッカーの技術をうまく利用することによってのみ、選ばれることでしょう。幸いそれは成功しました。
 ここに、イースターのメッセージとクリスチャンたちがイースターを祝う理由があるのです。
 イースターは「ありうる」ということを教えています。22節に「神はこの方のあかしをされた」とあります。これは「裏書きする、是認すると認める」と言 う意味です。イエス様は神の印が押されましたので、地上で神を代表されました。次に神はイエスを通して、自分の力あるわざを行われたと語っています。私た ちは、自分を神様にゆだねると、神は私たちを所有して私たちの内に、またたちを通して自分の力を示してくださいます。私たちを滅ぼそうとする反対の作用が 起こっても、その作用が私たちをその中にいつまでもつないで置くことは「ありえない」、不可能なのです。
 イエス様を信じ受け入れると、彼の復活の力、不可能を可能にする力を持って、私たちの内に入ってくださいます。そして神の命が宿り、人々を死の状態から神における新しい命へとよみがえらせる「ありうる」ことを知るようになるのです。