2005年5月 H・K姉

聖書を開くと、この恵みと平安という言葉が、随所に出てきます。わたしが長い間、探し、求めていたものが聖書にありました。

わたしの性格を一言でいうとすれば、楽天的で、まじめでいいかげん、といったところでしょうか。楽しいことが大好きで、突き詰めることが大の苦手です。

10代のころは、友達とばか騒ぎをしていてもどこかで人生なんてそんなに大したもんじゃないな、と、もうあきらめていたところがありました。ただ、理想も根拠のない自信もあり、いつかは立派な大人になると信じていました。それは社会的でもあり、道徳的でもありました。

そんな大それた思いが、少しずつ実際の自分とどんどん離れていくことを、20代は、認めなくてはいけないようになってきました。社会的にはどこにでもいる1人の女性。

30歳の時、オーストラリアにガイドとして働くために面接を受けた時、面接官が「10年後は何をしていると思いますか?」と尋ねました。「何をして いるか分かりませんが、自分が好きな自分になっていたいと思います」と、とっさではありますが、そう答えた時は、まだわたしは信じていました。自分が望む 自分にはなえるはずだ、と。ところがそれさえもわたしにとっては簡単なことではありませんでした。自分が好きな自分にいつまでたってもなれないのです。

最後の望みは子どもが生まれた時でした。わたしにとって、掛け替えのない子どもが生まれた。自分よりも大事なものが生まれた。どんな犠牲を払ってでも守るべき愛する息子。母として、満足する自分になれるはず。これがわたしが成長できる最後の機会ではないか。

しかし相変わらず短気で、わがままで我慢のない甘えた自分がいました。わたしは変わらない、と感じた時、わたしは途方に暮れました。自分が甘えるこ とのできる、母と主人には(本当に今思うと申し訳ない気持ちでいっぱいですが)、難癖をつけては当たっていました。情緒不安定になり、精神安定剤を飲まな ければ眠れないし、すぐ泣いたり怒ったり不安になったりして感情が抑えられませんでした。

どこにいても、何をしていても、誰といても(子どもは別ですが)、安らぎがありませんでした。それも自分の未熟さが原因かと思うと、もう生きている 間この状態は変わらないと思うと、落ちるところまで落ちてしまいたい衝動にも駆られました。それでも、子どももいるので、この状況から何とか抜け出さなけ れば、と、いろいろな試みをしました。

前世が悪いのか、トラウマがあるのだろうかと真剣に悩み、これは魂を磨かなくてはとさまざまな本を読み、試み、風水も調べ実行しましたし、石のパ ワーに頼り、肌身離さず身に着けたり、気功で気の流れを良くしようともしました。占いに通い、悪いものを取り除いてもらったり、白魔術なるものを行いもし ました。細木数子さんの本も手放せませんでした。一時的にはどれもポジティブになるのですが、不安定な状況は変わりませんでした。

そして最後に思ったのが、精神科のカウンセリングを受けるか、その前から気になっていた教会に足を運ぶかでした。友達の友達が、毎週日本人教会に 行っているよと聞き、1カ月ほど悩み、2004年5月23日、初めて礼拝に参加しました。最初の日は正直なところ、何もかもに驚いただけでした。3度目の 聖餐(さん)式で、ブルース先生が、イエス様がわたしたちの代わりに罪を負って十字架にかけられた、と静かに語られた時、涙がこぼれました。

それから、毎日毎日、自分が変わっていくのが分かりました。そして教会で貸してもらう本を読むと、随所にはっと思い当たることが出てきたりして教え られている、と感じました。日曜ごとに教会に行っては、わたしは神様に愛されている、と思うことで、わたしの心は落ち着いていきました。

それまでは、主人が出張に行くと(月に1度はあります)、夜は不安で仕方なく、ほとんど眠れないばかりか、洋服を着たまま、車の鍵とかばんを手元に 置き、携帯は警察署のナンバーにセットし、誰かが来たら、どこへどう逃げようかとばかり考え、少しの物音で何度も鍵をチェックするありさまでした。それ が、教会に行き始めてからは、神様が守ってくださる、そしてもし何かが起こるとすれば、それはわたしに必要だからだと思うようになり、全く不安がなくなり ました。

6月に3週間、日本に帰った時も、変えるたびにいつも両親とけんかしてしまい険悪な状況に必ず何日かなってしまうのに、今回は、ただただ両親の愛に 感謝し、今までの勝手な自分を反省するばかりでした。そして母は、わたしが教会に行って変わりつつあるというと、心から喜んでくれました。わたしのことを とても心配していたのです。

それから、子どもの学校での心配事、家庭の不和、毎日の倦怠(けんたい)感。そういったものが一つずつ解決していきました。今まで自分が悩んでいたことの大半は、自分が原因だったのだと気付かされました。

10月31日に、幸せにも、多くの兄弟姉妹に見守られて洗礼を受けました。まだまだつたないわたしは、今も悩み、迷い、後悔し、反省したりの忙しい 毎日を送ってはいますが、教会に来始めて8カ月、薬も1度も飲んでいませんし、主人とけんかもしていません(痴話げんかは、ほんのたまにありましたが)。 そしてこれからももっともっと、主が安らぎの中にわたしを引き上げてくださることを信じ、感謝の気持ちでいっぱいです。

わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。今、わた しが肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をお捨てになった神の御子(みこ)を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への 手紙2章20節)

今、わたしは、主とともに本当の平安と恵みの中で生きています。