2005年4月 M・K姉

今日このような機会を与えていただいたことに感謝します。

最初に聖書を読ませていただきます。今年になって、このみことばは何度となくわたしの頭をよぎっています。イザヤ書51章1節です。

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。
 わたしに聞け。
 あなたがたの切り出された岩。
 掘り出された穴を見よ。」

ご多分に漏れずわたしも、キリスト教や教会とは無縁の生活を、双子の子どもが与えられるまで送っていました。わたしには、3人の子どもがおります が、2番目と3番目の子どもが双子として与えられました。無我夢中で育てていましたが、はいはいをしたり、よちよち歩きをしたりと、目が離せなくなるころ から、この子たちを育てるのは、大変なことだと、思わされてきました。

本人たちにとっては、単なる遊びなのですが、さまざまなことをしでかし、その後始末に追われて「こんなこといつまで続くんだろう。疲れたなあ...」という思いが湧いて出てくるようになりました。

その当時のわたしは、完ぺき主義者でないにしろ「物事はこうならねばならない」という、頑固な思いにとらわれているようなところがあり、また、育児 も子どもの個性などは無視して、わたし自身が扱いやすいように子どもをコントロールしていた、と思います。「こうあらねばならない」という理想と、とんで もないことをやらかしてくれる現実とのギャップに、だんだん育児に対する自身もなくなってきました。

どうせ何をしても駄目だ、何の意味もない、と思い始め、そうなると、今まで生きてきた自分の人生まで、何だったんだろう、と思い始めました。

何のために一生懸命やってきたのか、これから先、こんな状態でどうやって生きていけばいいのか、と混迷の中に陥っていきました。

そんな時、「ピンポーン!」と、にこやかな笑顔とともにやって来たのが、エホバの証人でした。"聖書"という言葉と温かそうな人柄に引かれ、つい彼 らの話を熱心に聞いてしまいました。そして、わたしが抱えている問題も解決できそうな気がし、彼らの言うところの"研究生"となり、1年余りエホバの証人 の教理を勉強しました。常々、不満に思っていることや、疑問に思っていることなどを聖書を通して説明してもらうと、いちいち納得がいき、これは本当の真理 だと思い、エホバの証人になって、家々を回ろうと決心するほどにまでなりました。

そんな中でも疑問に思っていることがありましたが、それは「イエス・キリストは神か否か」ということでした。

キリスト教理に少し触れたことのある主人に聞いてみると、「普通の教会では、キリストは神だというよ」と、答えが返ってきました。エホバの証人の教 えは、神ではなく神に造られた第一号がイエス・キリストということでした。つまりキリストは創造物ということです。わたしはびっくり仰天しました。

これは、普通の教会に行って、どちらが本当かを確かめてみなくてはいけないと思い、近くの教会に行きました。会堂の中に入っていき、あいさつなどを 済ませていると、何ともいえない温かいものに包まれてきました。それは、一陣の風が吹いてきて、わたしを包み、そして駆け抜けていったような感じでした。

わたしの心の中の気負いや突っ張ったものが解け去り、「なーんだ、こっちじゃないの」と、へたへたと腰が抜けて座り込みそうな思いになりました。

2000年前、カルバリーで示された愛が、営々と受け継がれ、そのままそっくりそこにあることが感じられましたし、その2000年間の"時の流れ"のようなものも感じました。

それからは、エホバの証人との勉強もやめ、教会に通うようになりました。教会に通うようになり、罪や十字架でのあがないが分かり、天国への希望を持 てるようになりました。すべての罪を思いつく限り書き出し、こんな罪深いわたしのために十字架を忍んでくださったイエス様に、全人生をかけていくことを決 意し、 1989年に受洗しました。

早いもので、受洗して16年目になります。

冒頭のみことばは、自分がどんなところから掘り出されたのか、どんな者だったのかをわたしに思い起こさせてくれます。「イエス様ありがとうございま す。わたしを救ってくださって、感謝しています」と、こんな言葉では言い表せないのですが、恩義に思って生きているのに、つい不平不満を募らせてしまいま す。

特にここ2、3年は、日曜ごとの礼拝も守れない状況が続いたり、聖書が思うように読めなかったり、人と接する中で、神様の存在がどんどん遠ざかっていくような感じを持ちました。

自分が疎ましい者のように思われたり、"百害あって一利なし"のような存在で、何の役にも立たないのに、人を傷付けてばかりいると思わされ、心が元 気を失い、疲れ果てているような苦しみを感じていました。アリ地獄にはまったような気分で、じたばたすればするほど破滅に近づいていくような、絶望的な気 分を引きずっていました。

今でもそんな気持ちを持て余すことがありますが、さぞ掘り出しにくかったわたしだろうに、そんなわたしを掘り出してくださり、今まで導いてくださった神様は、これからも助けてくださる、と心に覚えさせています。

また最近、福田牧師が下さった賛美の曲を聴いていた時、こんな状況の中にいるのは、捕らわれの棺おけの中にいるようなものだと感じました。知らないうちに眠らされていたこと、また賛美によって目覚めさせられると感じました。   
いろいろなことが起こってきて気持ちをくじかされることがありますが、自分に与えられているところを全うしていけるように願っています。

最後にわたしの今年のみことばをお読みして終わります。

ヘブル人への手紙12章節ですが、2節からお読みします。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに 十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を 失い、疲れ果ててしまわないためです。」

ありがとうございました。