2005年10月 M・H姉のあかし

小学生の頃私は、神又は精霊等何か人間の力だけでは説明出来ない事があると、子供心に思っていたのですが、調べる術も無く、ただ山には山の神様、海 には海の神様、日本には日本の神様がいるんだろうなと漠然と感じ、その神様に毎晩寝る前に家族の安全、幸せを願い一人でお祈りしていました。

中学生になった頃から、神様は本当に複数なんだろうか、神様にも順位があるのだろうか、一番上の神様は誰なんだろう等と考え出したら、すっかりわか らなくなってしまって、「神様、私はあなたが誰なのかわかりませんが、私は貴方に向かってお祈りしています、この思いは届く筈です」とお祈りしだしまし た。

ある日母親と「汚れなき悪戯」という映画を見ていると、十字架に掛けられたイエス様が出てきました。小学生の時も日曜学校に通っているお友達にクリ スマスパーティに誘われたり、本を読んだりしてイエス様の事は知っていましたが、偉い人だったんだなとしか思っていませんでした。イエス様が神様である なんて全く考えなかったし、説明されてもその時は分かる事ではなかったと思います。

でも十字架のイエス様を見た私の心の中に何か刺さる物がありました。映画の内容自体は真のクリスチャンの信仰からみたら程遠いものだったと思います が、その姿は私の脳裏に焼き付きました。当事の私は中学生で英語が好きで、日本の文化よりも西洋文化に憧れていたし、USAの方が日本よりも位置関係も上 だし、そこで広がっている宗教の神様の方が信頼するに価する等と勝手に色々と理由をつけて、まあ言っても宗教に於いては何の知識も無い12歳の子供なりの 理論でしたが、イエス様にこれからは毎晩お祈りしようと決めました。

そこで、イエス様にはどうしてお祈りしたらいいのだろうと思って、そこにいた母に聞けば、幼少時代、カトリックの学校で過ごしたという事で(それはその時初めて知ったのですが)、簡単なお祈りを教えてくれました。

それからイエス様への毎晩のお祈りが始まったのです。

毎日が平和に過ぎていきました。お祈りしている事で全てが順調にいっていると思っていました。又その時関西学院大学に通っている方に家庭教師をして 頂いていたのですが、聖書を読んでみたいというと、新約聖書を持ってきてくれました。まあ結局マタイ以降目を通した事はありませんでしたが。

それでも私は日本の風習に沿って生きていたので、初詣に行っておみくじを引いたり、受験の時は大阪の北野天満宮にお参りに行く等、今から考えると知らないという事は何という罪なんだろうという日々を送っていました。

イエス様に対しても信仰を持った訳でもなく、当然救われた訳でもなかったので、私はまだ罪の中にいたのです。それを目覚めさせてくれる出来事が起こ りました。それは、お祈りが聞かれたのでは無く、聞かれなかったという形でです。今から思い起こせばもう何をお祈りしていたかも忘れてしまいましたが、多 分自分勝手な事だっただろうと思います。それでも全てが願った様に思ったようになるのが当然であった人生を歩んで来た私にはかなりのショックでした。とい うよりも神を知らなく傲慢であった私には憤慨する事でした。なんと奢り高ぶった感情でしょうか。「神様は私の事なんてどうでもいいんだ。こんなに心からお 願いしたのに、もうそれなら今日からお祈りなんてしない。」と毎晩のお祈りを止めてしまいました。とんでもないプライドだらけの人間だったと思いま す。

それでも神のご計画は私の理知を超えたすばらしいもので、日本で教会とは全く縁の無い生活を送っていた私も仕事をするようになって、海外出張でイギ リスに行った時仕事の一環で現地のアングリカンや英国教会等に留学生を連れて行く事などがありました、そこで又私はふと疑問に陥ったのです。「神様は本 当にいるのかもしれない。」でも日本に帰ると又仕事や遊びに忙しくて楽しい日々が待っており、疑問に対しての答えをみつけようとする努力もしませんでし た。

オーストラリアにワーキングホリディで来る事にしました。その時、前の仕事先であった会社を通して、仕事とホームステイ先を紹介して頂きました が、そのステイ先の奥様の弟さんに当たる方がとても宣教に熱心な方で、クリスチャンユースの集まりや家庭集会にいつも呼ばれ、話しを聞いたり、ビデオ を観たり、今は私の主人となったいつも励ましてくれる素晴らしいクリスチャンの友に恵まれ、「神様が本当にいるのなら私はそれをみつけなければならない、 真実を知らなければいけない。」と思いました。それからは聖書を読んだり、信徒の集まりに参加して懸命に学ぼうとしました。そして間もなくしてシドニー の教会で牧師の説教後、讃美をしている時に、聖霊が私に下りました。涙で溢れながらも主に対する讃美が止められませんでした。1989年4月の第3日曜日 でした。

私は罪人だと言われる度に心の中で、私は他の人に比べたら、いつも他人の事を思いやってきたし特に悪い事もしていない、困った人、独りぼっちの人に はいつも手を差し伸べてきた、勿論他の人の証で聞くようなドラッグなんてやった事もない。割と良い人間だとまだ思っていました。でもそれは33年の生 涯を全く罪を犯す事無く神の為にだけ生きたイエス様に比べると何と罪に浸った人生だったでしょう。大した事ないと思う嘘、妬み、怒り、たとえ口に出さなく ても思うだけでも十分に罪になる感情、知らずに人を傷つけた言葉など、考え出したらきりがありません。

でも主イエスキリスト様は私を救って下さったのです。クリスチャンになった故失った物もあります。信仰に入る前と後では価値観も大きくかわりました。でもイエス様に頂いた恵みと平安に比べたら全てが色褪せて見えます。

ガラテヤ人への手紙 6:14 私には、私達の主イエス キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

聖霊に満たされた5ヶ月後の9月に洗礼を受けました。


コリント人への手紙 第二 誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

主の恵みと栄光に感謝致します。アーメン