<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss'><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790</id><updated>2009-09-27T18:49:15.820+09:00</updated><title type='text'>信徒のあかし</title><subtitle type='html'>一つ前のページに戻るには、ブラウザーの「戻る」ボタンをクリックしてください。</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>17</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>25</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-6026516381913522682</id><published>2007-03-05T18:54:00.002+09:00</published><updated>2007-03-05T19:10:39.942+09:00</updated><title type='text'>証し　M・O兄</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　私は日本人の両親の元にブラジルで生まれ、育ちました。&lt;br /&gt; 　子供のころから私は母にいつも、私の家の宗教は何か、そして神様はどこにいるのかと尋ねていました。10年間カソリックの学校に通い、イエスキリストのこと、マリア様のことを学んでいたので、神や宗教のことについてとても興味があったのです。&lt;br /&gt;　私の家族には特別な宗教がなかったので、私は多くの友達が信じているカソリックを信じたいと思うようになりましたが、母は"あえて特別な宗教を信じる必 要はないよ。なぜならどんな宗教も歩む道は違うかもしれないが、頂上にたどりつけば同じ神様を見つけられるのだから。"と言うばかりでした。&lt;br /&gt; 　１６才のとき友人からキャンプに誘われました。&lt;br /&gt; 　テントの中で眠り、サッカー、ＢＢＱ、ブッシュウォーク、かわいい女の子とも知り合えると聞き、なんて楽しそうなのかと思い両親に許可をもらい参加しました。&lt;br /&gt;　しかしそれはプロテスタントのクリスチャンのキャンプであり、私はほとんどの時間を聖書の勉強と、クリスチャンソングを歌って過ごしたのです。（もちろ ん友人はこの事を知っていました。）しかし私はこのとき、私たちの罪をあがなうためにイエス様がこの世に来てくださり、私が心を開けばイエス様が自分と共 にいてくださると強く感じることができたのです。しかしまだ楽しむことが優先で100％クリスチャンとして生きたわけではありませんでした。&lt;br /&gt; 　私は17才になって洗礼を受けましたが、イエスキリストを受け入れてからずっと心の中に苛立ちを抱えていました。それは自分の性格と信仰の弱さが原因だと思っていました。&lt;br /&gt; 　一人でじっくりと考えたくて、3ヶ月ほど人を避けて農場の中にある全寮制の学校の宿舎に入り、神に"私は何をしたらいいのか？どうするべきなのか？"と問いかけました。&lt;br /&gt; 　クリスチャンであるのなら天使のように聖くなければならないのに、自分はまだなれない。いつなれるのだ。という思いに苦しみ、そしてもっと強く神の臨在を感じたいと求めましたが結局私は確かな答えが見つけられませんでした。&lt;br /&gt; 　そして1９才のとき希望と冒険心を抱いて日本に移り住むことにしました。&lt;br /&gt;　日本に行ってからも日系クリスチャン教会で、ポルトガル語での礼拝を受けていましたが、ある時ブラジルに一時帰国したとき、ホーリネス教会の少年グルー プのリーダーに、自分の悩みや葛藤（かっとう）を話すと、彼は一度神から完全に離れて生活をしてみるのもいいかもしれない。そのとき本当の神のすばらしさ に気づくかもしれない。と、言ったのです。&lt;br /&gt; 　そのことが頭からはなれず、しばらくして私は神から離れました。&lt;br /&gt; 　約10年間私は神から離れていましたが、その間よくない出来事が何度もありました。&lt;br /&gt; 　2度も警察の記録に残り、私は落ちに落ちていきました。&lt;br /&gt; 　私はやはり自分の生き方は間違っていると思い、1年間オーストラリアで過ごした後、ブラジルに帰り再び神と共に生きようと決めました。&lt;br /&gt; 　しかし神はすでにプランを用意しておられました。&lt;br /&gt; 　神は私に自分の罪を全て見せ、残りの日本での生活を変えてしまいました。&lt;br /&gt; 　私はそうしてもらわなければ本当に自分の罪が見えなかったのです。&lt;br /&gt; 　オーストラリアに渡る9ヶ月前、32才の私は、まず水疱瘡にかかり大変な思いをしました。&lt;br /&gt; 　飲酒で運転免許を失いました。&lt;br /&gt; 　汚いお金をくだらないことに使い失いました。&lt;br /&gt; 　社長と個人的な問題を起こして職を失いました。&lt;br /&gt; 　彼らは私をつぶそうとし私の車はつぶされました。&lt;br /&gt; 　ほかにも恥ずべきことが、3ヶ月にわたり集中して次々に起こりました。&lt;br /&gt; 　神はこの私の厚く汚れた罪を、鉄のスポンジで洗い流そうとしてくださっているのだと思いました。&lt;br /&gt; 　私は神の前に再び悔い改めたいと思いましたが、こんな自分を神は赦してくれるのかとても不安でした。何度も何度も教会の前まで行き、中に入れないで家に帰る日が続きました。&lt;br /&gt; 　ある日私は彼の家に戻りました。新城のある教会に通い始め、主との交わりを再び持つことができたのです。それは本当に喜びでありました。神は私を受け入れてくれたのです。&lt;br /&gt; 　それから熱心に教会に通いました。&lt;br /&gt; 　私はこの大変な時期を与えてくださった神に心から感謝しています。&lt;br /&gt; 　私は若いころクリスチャンになりましたが、15年以上かけて本当のクリスチャンとは何かを知ることができました。&lt;br /&gt; 　もちろんまだ氷山の一角ほどしか理解はしていませんが、神の偉大さについて語ることはできます。この私の経験はあなたに置き換えることはできませんが、あなたにはあなたの人生の中で神のすばらしさを知ることができると信じています。&lt;br /&gt; 　"人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。"　マタイの福音書16章26節&lt;br /&gt; 　"もしあなた方が心を尽くしてわたしを捜し求めるなら私を見つけるだろう。"エレミア書29章13節&lt;br /&gt; 　"あなたがたのうちによい働きを始められた方は、キリスト　イエスの日がくるまでにそれを完成させてくださる事を私は固く信じているのです。"ピリピ人への手紙1章6節&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-6026516381913522682?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/6026516381913522682/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=6026516381913522682' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/6026516381913522682'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/6026516381913522682'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/mo.html' title='証し　M・O兄'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-409804839550239042</id><published>2007-03-05T18:54:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T19:10:11.321+09:00</updated><title type='text'>神の慈愛　 by L・P（信徒）　2006年２月26日バイリンガル礼拝にて</title><content type='html'>&lt;p align="left"&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　皆さんこんにちは。&lt;br /&gt; 　これからわたしのあかしをしたいと思います。&lt;br /&gt; 　神様がわたしたちの結婚に際しどのように祝福してくださったか、またその後どのような祝福があったかをお話しします。神様との出会いについて主に話したいと思います。&lt;br /&gt; 　最初に短くお祈りします。&lt;br /&gt; 「イエス様このあかしをあなたに捧げます。このあかしを祝福し、あかしを聞くことによって人々が祝福されるようにしてください。その結果人々が救いに導かれますように」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt; 　あかしの最初に聖書の個所を読みます。ヨハネ３章１６,１７節です。&lt;br /&gt; 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」&lt;br /&gt; 　この聖書個所をお読みしたのは、自分がした悪い事に焦点を当てるのではなく、そのことが自分を救いに導いたということを知ってもらいたかったからです。&lt;br /&gt;　わたしが子どものころは、家庭はとても困難な中にありました。わたしが５歳のとき母親は子どもを育てるのにとても苦労していました。それで母は、４人子 どもを施設において、出て行ってしまったのです。父はその後、再婚しました。その結果、家族は１１人になりました。父は最初の結婚で４人の子どもをもうけ ていましたし、再婚相手の女性には２人の子どもがいました。再婚後３人の子どもが加わり、そのうちの２人は双子でした。ですが、その再婚もあまりうまくい かなくて、父は傷つき落ち込んでしまいました。その結果、父は自殺を試みましたが、幸いにも命は取り留めました。&lt;br /&gt;　わたしは、１９９４年９月に救われました。その６ヶ月前は人生の中でとてもつらい時でした。わたしはすごく落ち込んでいたので、家族の誰とも連絡を取っ てない状態でしたし、母親に対しても、もうあなたと付き合いたくないとも言っていました。そう言うことがあったので家を出て、誰か他の人と住みたいと思っ ていました。そして、ここの近くでもありますが、フロリダガーデンにシェアーハウスを見つけました。&lt;br /&gt; 　そこは、何とクリスチャンだけで占められていたシェアーハウスでした。彼らは、神様の愛についてあかししてくれました。&lt;br /&gt; 　２,３年前に、母親がクリスチャンになっていましたが、その母と牧師さんが家族の事について祈っていました。その時母は家族の中でただ一人のクリスチャンでした。&lt;br /&gt;　クリスチャンになる３日前に、２人の兄弟と従兄弟と一緒にパブに居ました。その兄弟は自分の家族の中で付き合いのある唯一の兄弟でした。その時、その兄 をからかったために殴られてしまいました。兄弟とはいい関係を保っていなかったわけですが、わたしの兄は、とても怒りやすい気質の人でしたが、５年前彼は 車の事故にあって、その結果とても暴力的な人になってしまいました。パブで兄が２回ほど殴ってきたので、鼻の骨が折れそうになってしまいました。自分を守 る為に、兄の頭をヘッドロック（頭を自分の脇に抱え込んで）しておとなしくさせなければなりませんでした。わたしの家族はクリスチャンではなく救われてい ませんでしたので、このようなことも起こったわけです。&lt;br /&gt;　その後家に帰って、悲しくまた裏切られたような思いを抱きました。その夜、わたしは自分の罪を確信しました。兄とけんかをしたことで罪を確信したわけで す。罪を認めるという体験は、人生の中で初めて起こったことでした。罪を認めることは、クリスチャンや家族のものが祈ってくれたから起こるということを知 りました。&lt;br /&gt;　フラットメイトの人が「教会に行かないか？」と聞いてくれたので、「ハイ行きます」と答えました。その時までのわたしの人生はとてもひどいものでしたの で、教会に行く事によって何も失うものはないと思ったからです。そのシェアーメイトたちを見ていて、その人たちの中に愛や喜びや平安があるということを感 じていました。そしてそれが自分にも必要だと感じていました。&lt;br /&gt; 　１カ月間彼らを見ていて、彼らが教会から帰ったきた時、いつでも喜びに満たされていると感じていました。彼らはけんかもせず仲良くやっていましたが、それはわたしにとってとても珍しいことでした。教会に行って聞いた牧師さんの話は論理にかなったものでした。&lt;br /&gt; その時に神様がわたしを愛してくれて、許してくださり、わたしを受け入れてくださっていると知りました。&lt;br /&gt; 　聖書、ローマ人への手紙２章４節「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」&lt;br /&gt; 　神様は自分に対して寛容であり、またなお寛容であります。&lt;br /&gt; 　わたしが救われた後、神様はわたしの家族にも素早く働いてくださいました。&lt;br /&gt; 　次の日に自分の兄弟に連絡をとらなければならないと感じました。自分の悪かった事について許しを請いましたし、また、兄弟を許すということも言いました。&lt;br /&gt; 　それから、神様は、実母に連絡を取るようにと言われました。母に対しても、自分の悪かった事を謝り、また母自身も許してくれるようにと言いました。&lt;br /&gt; 　その時は、人を許す事は簡単にできました。それは神様が下さったものでした。許す時、自分がどれだけ神様から許されているかを考えると人も簡単に許すことができます。&lt;br /&gt; 　その２,３カ月後にお父さんの元を訪れなければならないと強く感じました。&lt;br /&gt;　その訪問の時、神様、イエス様に対する信仰を告白しました。父もイエス様に関する信仰を告白しました。一緒に交わりをし、許し合ったのです。大抵このよ うなことはすぐにはできないのですが、この時が父と会う最後の時となったのでした。２週間後に父は心臓発作で亡くなってしまいました。わたしの友達は、天 使が父を天国に連れて行ってくれたという幻を見ました。&lt;br /&gt; 　家族は皆、お葬式に参列したわけですが、その時わたしは自分の信仰を告白し、双子の姉妹が救われました。後に、けんかをした兄も救いに導かれました。&lt;br /&gt;　これから、妻のMとのあかしをしたいと思います。わたしは生涯、わたしと結婚してくれる人がいるとは思っていませんでした。神様は忠実なお方です。 １９９４年から２００３年の間、伝道に熱心で、予言の賜物がある教会に通っていました。その間に妻に対する沢山の予言を戴いていましたし、伝道に関する チャレンジも受けていました。自分の性格についても神様はチャレンジをしておられました。&lt;br /&gt;　予言の中で路傍伝導の活動をするようにと言っておられました。わたしにとっては、路傍伝道はこの世の中で一番したくない事でした。というのもわたしはそ の当時、とても恥ずかしがり屋だったからです。９カ月間、自分の中でずっと葛藤がありましたが、神の御意思に従いました。そして路傍伝道をするようになっ たのですが、その間に妻のMに会いました。路傍伝道の時、Mにトラクトを渡しました。その結果、彼女はクリスチャンになりました。このことは結婚するまで わたしは知りませんでした。&lt;br /&gt;　２００３年にお付き合いを始めて、２００４年１月に婚約しました。２００４年１２月に結婚しました。２００３年は経済的に困難な時でしたので、結婚すべ きなのかとても迷っていました。結果的には結婚しましたが、とても祝福されたものでした。その時わたしは、「結婚する事があなたの御心ならばそのようにさ せてください」と祈りました。神様の御心ならばそのようになると信じておりましたので。&lt;br /&gt; 　２００４何１月に今の仕事に就きました。昇進できたり、Mも仕事を見つけることができ、祝福を受けています。このような事を通して、神様の用意された道を歩んでいると励まされていますし、この結婚が神様の備えてくださったものと信じています。&lt;br /&gt; 　結婚生活の３年間は、その前の３年間と比べると経済的にもとても恵まれています。&lt;br /&gt; 　２００４年の１２月に、実はこの向かいのクラウンプラザホテルで結婚式を挙げました。&lt;br /&gt; 結婚式もわたしたちの期待をはるかに超えたものでしたし、２００５年１月には日本で披露宴もしました。わたしたちはとても幸せですし、日々二人の関係を深めています。&lt;br /&gt; 最後に、この証を聞いてくださってありがとうございます。わたしはいまだに少し恥ずかしがりですが、神様がどんなによくしてくださったかをあかしでき、感謝です。&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-409804839550239042?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/409804839550239042/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=409804839550239042' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/409804839550239042'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/409804839550239042'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/by-lp200626.html' title='神の慈愛　 by L・P（信徒）　2006年２月26日バイリンガル礼拝にて'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-2148576650036067937</id><published>2007-03-05T18:52:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T19:09:46.139+09:00</updated><title type='text'>イースターに寄せて　M・K姉</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　先日、従兄弟から手紙をもらいました。親戚一同の中で彼だけが私の仲間です。&lt;br /&gt; 　彼は、産後の肥立ちの悪い奥さんが早く健康を回復し、可愛い赤ちゃんと一緒に自分の元に帰って来るようにと心待ちにしていたのに、届いたのは離婚の申し出だったという痛ましい経験の中から、クリスチャンになりました。&lt;br /&gt; 　彼の近況と共に、洗礼のときの証しが同封されていましたが、その証しの中に「キリストと共に死んだものは、キリストと共に新しい命に生きるということを信じます。」と、書かれていました。&lt;br /&gt; 　イースターは、まさにこのことだろうと思います。&lt;br /&gt;　キリストは十字架にかかって死なれましたが、3日目に復活されました。死は、キリストの命をその中に閉じ込めておく事はできませんでした。キリストの命 の力は、永遠から永遠に続くもので、死は48時間あまり必死になって何とか閉じ込めたのですが、とても太刀打ちできるものではありませんでした。&lt;br /&gt; 　私達の日常は、平々凡々としながらも自分の思うようにはなりません。思いがけない事が起こってきたり、何気ない人のことばに躓いたり、ささいな事から取り返しの付かない事態へと発展したり、病気になったりと悩みは尽きず、苦しみも去ることを知りません。&lt;br /&gt;　岩淵まことさんは、8歳のご長女を天に送られ、その後奥様も乳がんに冒される体験をなさいました。奥様は、その後元気になられましたが、奥様ががんだと いうことが分かった時や、がんと戦っておられる時の事を、「そりゃあ、とてもショックでしたよ。妻が手術を受けるときには、これが最後かもと覚悟もしまし たし、その後の療養生活も苦しいものでしたので、どよ～んと本当に暗い気持ちになりました。」と話して下さり、又その後で、「でもイエス・キリストはその くら～い、もっとくら～い所からやって来て、私をひかりのほうへと連れて行ってくれたのです。」と、証しされました。&lt;br /&gt; 　岩淵さんも私の従兄弟も、キリストの死を打ち破った命を自分のものにしている人たちだと思います。&lt;br /&gt; 　ブルース先生は、先日のお説教の中で、「私達には毎日がイースターです。」と言われましたが、「神様、私が日々、イエス様と共に死に、イエス様と共に新しい命に生きられるようにさせて下さい。」と、祈り、そうなったと信じていきなさいと言うことだろうと思います。&lt;br /&gt;　いろんなことに疲れ果てて、もうどうでもいいやなどと思うこともよくありますし、どこからも力が湧いてこない時もありますが、この兄弟たちを助けて下 さった方は、私にも働いて下さると信じます。信じて祈りながら歩み行けば、死を打ち破った命に生かされていけるのだと思います。&lt;br /&gt; 　このイースターの時に、イエス様が私に対してして下さった事を思い、イエス様にお従いして行こうと心新たにしたいと思います。&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-2148576650036067937?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/2148576650036067937/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=2148576650036067937' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/2148576650036067937'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/2148576650036067937'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/mk.html' title='イースターに寄せて　M・K姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-3993084075889410695</id><published>2007-03-05T18:51:00.000+09:00</published><updated>2007-03-05T19:09:24.450+09:00</updated><title type='text'>イースターに思う　S・N姉</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　何十年も前のことですが、イースターの日に洗礼を受けたので、イースターというと受洗した日の事を思い出します。&lt;br /&gt;　それまではイースターのイの字も知らず、教会に行って、これが私の求めていたものだという思いだけでまもなく洗礼をうけましたが、後で教会の役員の方 に、クリスマスに受けるよりイースターに受けることの方が意義深いといわれて、そういうものかと思った事を思い出します。&lt;br /&gt; 　日本ではサンタクロースがプレゼントを持ってやってくる事と相まって、クリスマスがにぎやかに祝われますが、復活祭はメジャーな祭りではありません。&lt;br /&gt;日本人にとっては、キリストが十字架につけられ、私たちの罪、咎のために死なれ、そして3日目によみがえられたという事が、心情的に受け入れ難いようで す。十字架に磔にされたキリストのことを、こんな残酷な死に方をするなんて。それに引き換えお釈迦様は菩提樹の木の下で安らかに亡くなられた。と話してい るのを聞いたことがありました。&lt;br /&gt; 　しかしクリスチャンにとっては、キリストがそのような死に方をして復活しなかったら、私たちの救いはなかったのだという、そこに信仰の基（もとい）があるのです。&lt;br /&gt;　旧約の終わりのころは、神不在？の暗黒の時代だったといわれています。その暗闇の中に忍耐に忍耐を重ねた神が一筋の光として御自分の一人子イエスキリス トをこの世に送ってくれました。人々を救うために、ただ十字架にかかるために送られてきたといっても過言ではないそのことに人類の救済がありました。そし て御子を死の世界からよみがえらせ、復活するという形で、全てのことを成就してくれました。&lt;br /&gt; 　復活祭は年によって日にちが違いますが、イースターに入る前をレントと言います。&lt;br /&gt; 　日本語で受難節。灰の水曜日から数えて、日曜日を除く40日間のことを言いその次がイースターサンデーになります。特にイースターの前１週間を受難週といい、私が通っていた日本の教会では、月曜日から金曜日まで毎日そのための集会が開かれていました。&lt;br /&gt; 　使徒の証し、牧師のメッセージがあって、祈り会がありました。教会学校の子供たちは自分の好きな食べ物を我慢して、イエス様の苦しみを共に味わいました。&lt;br /&gt; 　オーストラリアの教会ではグッドフライディに礼拝があり、また48時間の断食をする人もいます。イースターの時期に売られる卵形やウサギのチョコレートやクロスバンは日本では見られなかったもので、最初は物珍しく思いました。&lt;br /&gt;　イースターを迎えるころになると、自分も十字架上の主に釘を打った一人だという思いと、それにもかかわらず、全ての罪を許し、永遠の命を与えると約束し たキリストを忍ばずにいられません。また、手に釘の跡を残しながら弟子たちの中に現れたキリストをしのび、生涯の救い主と告白できることを感謝せずに入ら れません。&lt;br /&gt; 　今ここに生かされている恵みに感謝しながら、今年もイースターを迎えます。&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-3993084075889410695?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/3993084075889410695/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=3993084075889410695' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3993084075889410695'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3993084075889410695'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/sn.html' title='イースターに思う　S・N姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-824613284849559670</id><published>2007-03-05T18:50:00.000+09:00</published><updated>2007-03-05T19:09:01.611+09:00</updated><title type='text'>イースターの証し　L・E姉</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　私にとって、イースターはいつも特別に意味あると時と考えています。&lt;br /&gt; 　調度50年前のイースターの時に、終身、私を変えてしまった劇的な経験をしました。&lt;br /&gt; 　少し前から私は青年部の一人として、近くの教会に出席するようになっていました。&lt;br /&gt;毎年、イースターの時に、青年たちは地方の幾つかの教会、教派から青年会のために一つの教会に集まることがあったのです。このようなある集会で、50年前 に聖霊が罪を見出させて、イエス・キリストを、自分の救い主として信じ受け入れる必要があることを教えてくださいました。その夜、私はイエス・キリストを 救い主として信じ、人生を百八十度転換させられました。その結果、自分のためにではなく、救い主イエス様を喜ばせて生きようという気持ちになりました。&lt;br /&gt; 　罪と言うのは法律を破ることではなく、つまり悪をなすことではなく、正しいことができないということです。言い換えれば神様の儀の基準に達しないと言う意味です。人間は生まれながらに不義な者です。したがって刑罰が下ってくるのですが、これでは困ってしまいます。&lt;br /&gt; 　しかし、父なる神様が自分と和解をさせる大計画をお立てになりました。&lt;br /&gt;　旧約聖書全体の中で、神様は救い主の約束をしてくださっています。そして、ちょうど良い時に御子イエス様をお送りくださいました。イエス様は人間の中に 住み、神の道を教えながら、病を癒したり、希望のない人々に希望をお与えになりました。最後に罪に対する支払いをして十字架で死んでくださいました。私た ちは当然受けるべき刑罰をイエス様が身代わりとして受けてくださったのです。今、私たちは、自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主として信じ受け入れる だけでいいのです。イエス様は死んだきりではありません。死んで葬られてその後、よみがえられました。今、天において父の御前でとりなしの祈りをしてくだ さっています。そして助け主の聖霊様を私たちにくださいました。聖霊様が私たちの内に住み、神様の道を教えて、導いてくださるのです。&lt;br /&gt;　ですから、イースターのメッセージは、ウサギと卵のことではなく、神様の御子イエス・キリストの死と復活のことです。そしてそれによって、人間が神様と の和解を受けることができると言うことです。毎年クリスチャンたちはイースターを祝うことを通して、このことを記念しています。それだけではなく、信じて いる全てのクリスチャンにとってイースターは毎日生活の中で記念すべきお祝いです。毎日イエス様による救いと交わり、そして、生きるために受けている助け を感謝すべきでしょう。&lt;br /&gt; 　読者の皆さんが毎日の生活の中で、この救いの喜びとイースターの本当の意味が何であるかを知ることができるように、お祈りしています。&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-824613284849559670?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/824613284849559670/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=824613284849559670' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/824613284849559670'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/824613284849559670'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/le.html' title='イースターの証し　L・E姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-4779108097600864848</id><published>2007-03-05T18:49:00.002+09:00</published><updated>2007-03-05T19:08:41.268+09:00</updated><title type='text'>イースターについて　ブルース・エドワーズ牧師</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　なぜイースターを祝うのでしょうか。&lt;br /&gt;　キリスト教会では四つの祭りがあります。クリスマス、イースター、ペンテコステとイエスの昇天です。イースターと言うのは、イエス・キリストの死と復活 の祭りです。「イースター」と言う言葉の由来と、この言葉をキリスト用語に取り入れられたことについての論争は、まだ続いています。&lt;br /&gt;　しかし、一番大切なことは「イースター」は、常に命が死に打ち勝ったことを意味しているということです。この原理は自然界に見られます。冷たい死のよう に寒い冬の後に、新しい命が生じる春がやってきますね！　キリスト教会の中にある教派では、イースターを始めどのイベントも守ってはいけないと主張してい ますが、実際、世界中のキリスト教会が祝っているので、その理由を調べてみるべきではないでしょうか。&lt;br /&gt; 　イースターの意味と意義を知るために、イエスの死と復活が起こった頃に生きた人たちは、どのようにそれらの出来事を見たかよく調べる必要があるでしょう。使徒の働きの書では、ペンテコステの日に使徒ペテロが、説教の中で次のような言葉を述べています。&lt;br /&gt; 　２章22節から24節です。&lt;br /&gt;「イスラエルの人たち。この言葉を聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行われま した。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計 画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえ らせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」&lt;br /&gt;　24節の中の言葉に注目してください。「ありえない」ＮＯＴ　ＰＯＳＳＩＢＬＥ．何と力強い言葉でしょう。イエスが死ぬことはありえないとは書いてあり ません。事実、イエスが十字架につけられたことは、神のご計画でした。罪から救われるようにイエス様が死ななければならなかったのです。十字架上でイエス 様が、私たちの身代わりになって罪に対する刑罰を受けてくださいました。ところが死からいつまでもつながれていることは、ありえないことでした。同様に、 イエスの復活も私たちの救いには必要でした。&lt;br /&gt; 　普通、「ありえない」、不可能と言う言葉は、自分より強い動力や力に降伏すると言う意味です。またある目的や計画に挫折すると言う意味です。その反対は、将来が確実になることです。&lt;br /&gt; 私が13歳の時に、クイーンズランド州を代表するサッカーチームを２チーム選抜したのですが、私はその一つに選ばれました。1956年にメルボルンで行われるオリンピックを前に、全国サッカー選手権に出場する予定でした。チームの名前は、一つは[possibles    / ありうる]と言う名と、もう一つは[probables /ありそうな]と言う名前でした。私は、[possibles]チームに入りました。&lt;br /&gt; 　しかし、[possibles]と言うチームに入っただけで、クイーンズランド州のチームに選ばれる保障はありませんでした。体力とサッカーの技術をうまく利用することによってのみ、選ばれることでしょう。幸いそれは成功しました。&lt;br /&gt; 　ここに、イースターのメッセージとクリスチャンたちがイースターを祝う理由があるのです。&lt;br /&gt;　イースターは「ありうる」ということを教えています。22節に「神はこの方のあかしをされた」とあります。これは「裏書きする、是認すると認める」と言 う意味です。イエス様は神の印が押されましたので、地上で神を代表されました。次に神はイエスを通して、自分の力あるわざを行われたと語っています。私た ちは、自分を神様にゆだねると、神は私たちを所有して私たちの内に、またたちを通して自分の力を示してくださいます。私たちを滅ぼそうとする反対の作用が 起こっても、その作用が私たちをその中にいつまでもつないで置くことは「ありえない」、不可能なのです。&lt;br /&gt; 　イエス様を信じ受け入れると、彼の復活の力、不可能を可能にする力を持って、私たちの内に入ってくださいます。そして神の命が宿り、人々を死の状態から神における新しい命へとよみがえらせる「ありうる」ことを知るようになるのです。&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-4779108097600864848?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/4779108097600864848/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=4779108097600864848' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/4779108097600864848'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/4779108097600864848'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/blog-post_05.html' title='イースターについて　ブルース・エドワーズ牧師'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-918568057752722840</id><published>2007-03-05T18:49:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T19:08:18.581+09:00</updated><title type='text'>光あれ　信徒Y・U</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　聖書の中で「光」という言葉は、何度も何度も繰り返し使われています。口語訳では246回、新改約では238回、新共同約では254回です。&lt;br /&gt;　わたしの周りにもたくさんの光があります――。わたしが通ったキリスト教主義の幼稚園は、ひかり幼稚園という名前でしたし、わたしの甥は、クリスチャン であるわたしの姉とそのだんなに、創世記の「光あれ」にちなんで光（ひかる）という名前を付けてもらい、そして今わたしは「太陽の州」とも呼ばれるクイー ンズランド州に住んでいます。&lt;br /&gt; 　しかしいくら明るい環境にいても、心の中に光がなければ、気持ちは暗いままではないかと思います。聖書には「いつも感謝していなさい」とあります（コロサイ３：15）。感謝していれば気持ちも明るくなるはずです。&lt;br /&gt; 　明るくしていれば笑いだって生まれるはずです。諺にもあるじゃないですか。「笑う門には福来たる」って。&lt;br /&gt; 　光は闇よりも強いのです。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」（ヨハネ１：５）&lt;br /&gt; 　では最後に、ひかり幼稚園のエンカ（演歌ではありません、園歌です）にもなっている子供賛美歌52番を．．． ♪～ひかり、ひかり、わたくしたちは、ひかりのこども、ひかりのように、（１番＝あかるい、２番＝げんきな、３番＝ただしい）こども、いつも（１番＝あかるく、２番＝げんきで、３番＝ただしく）、（１番＝うたいましょう、２番＝あそびましょう、３番＝はげみましょう）～♪&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-918568057752722840?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/918568057752722840/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=918568057752722840' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/918568057752722840'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/918568057752722840'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/yu_05.html' title='光あれ　信徒Y・U'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-3559042494370834939</id><published>2007-03-05T18:48:00.000+09:00</published><updated>2007-03-05T19:07:57.923+09:00</updated><title type='text'>主の愛　M・H姉</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　主に愛される為には一体どうしたら良いのだろう。どうすれば主の御心に叶う事が出来るのだろうか？&lt;br /&gt; 　多分クリスチャンなら誰でも一度は突き当たった壁ではないでしょうか。それでは聖書に書かれている様に出来る限り多くの人に福音を伝えよう、そうすれば主に喜んで頂ける筈。&lt;br /&gt; 　でも果たして、私が福音を多くの人に伝えたら、教会の為に出来得る限りの奉仕をしたら、困っている人がいたなら、飛んで行ってすぐ手を差し伸べる事が出来たなら、それで本当に主の御心に叶う者となれるのでしょうか。&lt;br /&gt;　主は私が罪の中にいた時も愛していて下さったのではなかったでしょうか。それは私が主を愛するずっと以前から、私がまだ主の存在をも認め得ない時から、 そしてその愛は一時的な感情に流されるものではなく、決して薄れてゆく事のない愛なのです。私が信仰を持って主を愛し、主に信頼し救われた後も、軽薄な行 動や言葉、又間違った考えで主を悲しませた事も多々あったでしょう。それでも主は決して私を見捨てる事無く、いつも暖かく見守っていて下さったのです。私 の人格全てを含めて私そのものを愛して下さったのです。&lt;br /&gt;　他人の欠点に目がゆくのは簡単です。一緒にいて心地良い人、又話しをしていて楽しい人、優しい人を愛することは容易に出来ます。でもそれがもし気難しい 人、自分勝手な人、ましては犯罪者等であったらどうでしょうか？心からその人を愛せるでしょうか。愛する努力をも怠るかもしれません。&lt;br /&gt; 　でも主は心から愛して下さっているのです。それは人知を超えた愛です。&lt;br /&gt;　全く汚れの無い尊い主から見れば私も罪人であるのには何もかわりありません。それでも私の良いところも悪い所も、自己中心に生きてきた過去も全てを知り 尽くしても尚、心から愛して下さっているのです。私がどんなに主を愛しても主の愛にかなわないかもしれません。でも私は感謝の中、信仰を持って主を愛すの みです。&lt;br /&gt;　エペソ人への手紙2章8節9節「 あなたがたは、恵みの故に、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇 ることのないためです。」私の行いが私を救ったのでは、ありません。私の働きが神に愛されている理由ではありません。只、私は今神に愛されている喜びと幸 せに満ち溢れています。この喜びをまだイエス様を知らないでいる人々にも是非伝えたい。この思いが私を日々の主への感謝と祈り、そして主に使って頂ける者 として導いているのです。そして主に頂いた喜びというのは、どんな試練の中にあっても、逆境にあっても決して失う事のないものなのです。この喜びを一人で も多くの人に伝えたい。ローマ人15章29節「あなたがたのところに行く時は、キリストの満ち溢れる祝福をもって行く事と信じています。」まだイエス様を 知らないでいるあなたにも主の愛が届きますように。&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-3559042494370834939?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/3559042494370834939/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=3559042494370834939' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3559042494370834939'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3559042494370834939'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/mh.html' title='主の愛　M・H姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-6106730311839160368</id><published>2007-03-05T18:47:00.000+09:00</published><updated>2007-03-05T19:07:35.566+09:00</updated><title type='text'>家族っていいね　H・K姉</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;　あなたは今、このオーストラリアに家族と一緒に住んでいますか？&lt;br /&gt; 　あなたは今、悩み事、不安なことを誰かに相談できていますか？&lt;br /&gt; 　天のお父さんは、完全な方です。&lt;br /&gt; 　父はできの悪いわたしたちを、無条件でいつも変わりなく愛してくれます。&lt;br /&gt; 　真実の愛でわたしたちを守り、進むべき道を導き、傷ついたときにはいたわり、元気のないときには励まし、過ちを犯したときも父の前で悔い改めれば許してくださいます。&lt;br /&gt; 　そして、教会には兄弟姉妹がいます。&lt;br /&gt; 　天のお父さんを"ありがとうございます。"と共に賛美できることは最高に幸せなことです。&lt;br /&gt; 　悩み、落ち込んだときには、心からなぐさめ、励まし、祈り力づけてくれます。&lt;br /&gt; 　そしてたとえ知らないところへ行っても、教会の人たちは、兄弟姉妹として、温かく迎えてくれるのです。&lt;br /&gt; 　神を知ることによって、本来の家族のほかに、神様を父とする多くの兄弟姉妹を得たことをとてもうれしく思います。&lt;br /&gt; 　姉妹が大好きな詩篇です。といって送ってくれました。&lt;br /&gt; 　見よ。兄弟たちが一つになってともに住むことは、&lt;br /&gt; 　なんというしあわせ、なんというたのしさであろう。&lt;br /&gt; 　それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。&lt;br /&gt; 　それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。&lt;br /&gt; 　それはまたシオンの露にも似ている。&lt;br /&gt; 　主がそこにとこしえのいのしの祝福を命じられたからである。＜詩篇１３３＞&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-6106730311839160368?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/6106730311839160368/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=6106730311839160368' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/6106730311839160368'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/6106730311839160368'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/hk.html' title='家族っていいね　H・K姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-5107212487358326422</id><published>2007-03-05T18:46:00.002+09:00</published><updated>2007-03-05T19:07:13.054+09:00</updated><title type='text'>愛情を身に着けて　信徒Y・U</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;もう随分むかしの話になりますが、わたしは日本で教員として働いたことがあります。それは楽しく、充実した日々でしたが、同時に、「死にたい」と打 ち明けてくる生徒たちや、リストカット（カッターナイフで手首を切る自傷行為）を繰り返す生徒を前にして、何を言っていいのか戸惑い、不用意な言動で逆に 子どもたちを傷付けてしまうのではないかと思い悩む日々でもありました。わたしは「助けてください」と神様に祈り、子どもたちと接する時の基準を聖書に求 めました。「哀れみの心、慈愛、謙遜（けんそん）、柔和、寛容を身につけなさい。～これらすべてに加えて愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させるきず なです。（コロサイ人への手紙３：12-14）」「愛がなければわたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。（コリント人への手紙第一13：１）」「わた したちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。（ローマ人への手紙５：３-４）」&lt;br /&gt;　実際、「先生」と呼ばれるのがおこがましいほど未熟なわたしでしたが、神様はそんなわたしにもこれらの聖句を与え、励まし、守り導いてくださいました。 これらの聖句は、主婦となった今でも、折に触れて思い出し、人生の基準として実践できるよう、神様にお祈りしています。&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-5107212487358326422?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/5107212487358326422/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=5107212487358326422' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/5107212487358326422'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/5107212487358326422'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/yu.html' title='愛情を身に着けて　信徒Y・U'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-8422048050669069943</id><published>2007-03-05T18:46:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T19:06:50.474+09:00</updated><title type='text'>OZで祝うクリスマス　　ブルース・エドワーズ牧師</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:130%;"&gt;まずはじめに、これをお読みになる日本人の方々のために、「OZ」とは何のことなのか説明しましょう。皆さんの中には、ルイス・キャロルの童話『不思議の 国のアリス』をご存じの方も多いことでしょう。主人公のかわいらしい少女アリスは、夢の中で、気がつくと「OZ」という「under world（＝闇の世界 [直訳すると"下の世界"]）」にいたのでした。それは、大きなものが小さくて、小さなものが大きいという正反対な国、喜びの国、地上のどこにもないよう な国でした。&lt;br /&gt;　オーストラリアは、地球の下の方に位置していることから、いつしか「The Land Down Under（＝下の国）」と呼ばれるようになり、後に、有名なアリスの物語にちなんで 「OZ」という文字が付け足されました。そして今日、この正反対と喜びの国――地上のどこにもないような国は、しばしば「The Land of OZ（＝OZの国）」と呼ばれています。（注：ここでの「OZ」は、「Australia」の「A」と「ｓ」の２文字をくずしたもの）。&lt;br /&gt; 　さて、これがこの記事とどんな関係があるのでしょうか。考えてみてください。もしもキリストがベツレヘムではなく、オーストラリアで生まれていたら、「世界最初のクリスマス」はどんなクリスマスになっていたでしょうか。&lt;br /&gt;　第一に、季節は同じだったはずです。昔からクリスマス（つまりキリストの誕生日）は、12月に祝うのが普通です。12月といえば、北半球では冬です。と ころが聖書によると、羊飼いたちは、夜通し羊の群れの番をしています。これは夏にしかしないことだといいます。ご存じの通り、オーストラリアの12月は夏 です。ですから生まれたばかりのキリストは、おむつと袖なしのシャツだけで快適に過ごせたものと思われます。ほどなくして、キリストの誕生を祝うために、 遠くから博士たちが来訪しました。その光景は、クリスマスの日の典型的なオーストラリア人家庭の光景に似ていなくもありません――この日には、近くや遠く に住む親せきが一堂に会し、半世紀前に英国から移り住んだ移民の両親の伝統を受け継いで、熱々のポテトや肉料理、野菜、グレービーソースといったクリスマ スランチを囲んで楽しむのです。もっと現代的なところでは、オージー式バーベキューも定番です。日陰でも気温が約40度になるというのは、ご存じのことで しょう。&lt;br /&gt;　キリストは12歳の時、両親に内証で宮に行き、教師たちと神学的な会話のやりとりをします。しかしキリストがオーストラリアに住んでいたならば、クリス マスの食事（ランチ）の後、裏庭で草野球ならぬ「草クリケット」に興じ、大人たちがアボカドの木陰で"のびて"昼寝をしている間に、ボディーボードを抱え て自転車でビーチに出かけていたかもしれません。&lt;br /&gt; 　今年のクリスマスにも、こんな光景がオーストラリア全国で見られることでしょう。&lt;br /&gt; 　もちろんこれはすべて想像にすぎません。&lt;br /&gt; 　わたしがこの話を用いて言おうとしているのは、こういうことです――。&lt;br /&gt;　まず、読者の皆さんの中には、今年、これまで慣れ親しんできたクリスマスとは違うクリスマスを体験しようとしている方もいらっしゃることでしょう。国を 離れ、家族や友達も近くにいないかもしれません。季節も冬ではなく夏です。中には、この１年間のうちに生活が激変してしまった方がいるかもしれません。悲 劇に襲われたり、職を失ったり、今年の初めごろに抱いていた希望や夢が砕け散ったり、いまだに実現できずにいる方がいるかもしれません。 そのような状況にあっては、クリスマスが本来の「喜ばしい時期」になりそうもなく、むしろ孤独感や絶望感を抱き、あるいは欲求不満を募らせているかもしれ ません。けれども元気を出してください――地球上のどの国の教会にもキリストの家族は存在しているのですから。キリストは、ユダヤの地に生まれましたが、 たとえオーストラリアで生まれていたとしても、日本で生まれていたとしても、いっこうに構わなかったのです。皆さんが今年のクリスマス時期にどこにいよう とも、どうぞキリストの誕生を祝う家族の輪に加わり、またそれによって、現状を克服し、新たな希望とともに未来に向かって歩むための助けと力を得るようお 勧めします。&lt;br /&gt;　わたしが言いたいことの２つ目は、クリスマスをどこでどうやってお祝いするのかよりも、なぜぞれをお祝いするのかということの方が大切だということで す。クリスマスをお祝いする理由。それはキリストにほかなりません。キリストなくしては、あなたのクリスマスは、本当のクリスマスではありません。聖書に は、2005年前の最初のクリスマスの出来事だけでなく、その理由についても書かれています。神様は、人間のために最初のクリスマスをおつくりになり、老 若男女、すべての人々（これから生まれる者も含めて）のために、素晴らしい贈物を下さいました。その贈物とは、イエス・キリストの形をとった神様ご自身 だったのです。&lt;br /&gt;　神様の贈物には、わたしたち皆のための愛、喜び、平安、そして未来への希望に満ちていました。ひと言でいうと、聖書ではこれらを「救い」「福音」と呼ん でいます。わたしたちがこれらを手に入れられるように、キリストは十字架の上での死によって究極の代価を支払ってくださいました。わたしたちは、ただ、わ たしたちがそのような愛に預かるに価する存在であることを認めさえすればいいのです。聖書では、これを「悔い改めと罪の告白」と呼んでいます。そして、 ちょうど友達からプレゼントをもらうように、信仰によって神様の愛を心の中に受け入れることです。そうすれば皆さんは、ある現実世界を発見することになる のです。それは、夢の中にしかない「不思議の国のアリス」のような世界ではありません。「下の世界」とは正反対の「上の世界」です――そこで皆さんは天国 の力を手に入れて、地上にとどまりながらも、天国で永遠の命を得るという約束とともに生きることができるのです。&lt;br /&gt; 　「OZ」で祝うクリスマスが、あなたの人生で最高のクリスマスとなりますように。&lt;br /&gt; 　ハッピー・クリスマス！&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-8422048050669069943?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/8422048050669069943/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=8422048050669069943' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/8422048050669069943'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/8422048050669069943'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/oz.html' title='OZで祝うクリスマス　　ブルース・エドワーズ牧師'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-1459638745269328828</id><published>2007-03-05T18:41:00.002+09:00</published><updated>2007-03-05T19:06:18.851+09:00</updated><title type='text'>2005年10月　M・H姉のあかし</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;小学生の頃私は、神又は精霊等何か人間の力だけでは説明出来ない事があると、子供心に思っていたのですが、調べる術も無く、ただ山には山の神様、海 には海の神様、日本には日本の神様がいるんだろうなと漠然と感じ、その神様に毎晩寝る前に家族の安全、幸せを願い一人でお祈りしていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;中学生になった頃から、神様は本当に複数なんだろうか、神様にも順位があるのだろうか、一番上の神様は誰なんだろう等と考え出したら、すっかりわか らなくなってしまって、「神様、私はあなたが誰なのかわかりませんが、私は貴方に向かってお祈りしています、この思いは届く筈です」とお祈りしだしまし た。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ある日母親と「汚れなき悪戯」という映画を見ていると、十字架に掛けられたイエス様が出てきました。小学生の時も日曜学校に通っているお友達にｸﾘ ｽﾏｽﾊﾟｰﾃｨに誘われたり、本を読んだりしてイエス様の事は知っていましたが、偉い人だったんだなとしか思っていませんでした。イエス様が神様である なんて全く考えなかったし、説明されてもその時は分かる事ではなかったと思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;でも十字架のイエス様を見た私の心の中に何か刺さる物がありました。映画の内容自体は真のｸﾘｽﾁｬﾝの信仰からみたら程遠いものだったと思います が、その姿は私の脳裏に焼き付きました。当事の私は中学生で英語が好きで、日本の文化よりも西洋文化に憧れていたし、ＵＳＡの方が日本よりも位置関係も上 だし、そこで広がっている宗教の神様の方が信頼するに価する等と勝手に色々と理由をつけて、まあ言っても宗教に於いては何の知識も無い12歳の子供なりの 理論でしたが、イエス様にこれからは毎晩お祈りしようと決めました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そこで、イエス様にはどうしてお祈りしたらいいのだろうと思って、そこにいた母に聞けば、幼少時代、ｶﾄﾘｯｸの学校で過ごしたという事で（それはその時初めて知ったのですが）、簡単なお祈りを教えてくれました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それからイエス様への毎晩のお祈りが始まったのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;毎日が平和に過ぎていきました。お祈りしている事で全てが順調にいっていると思っていました。又その時関西学院大学に通っている方に家庭教師をして 頂いていたのですが、聖書を読んでみたいというと、新約聖書を持ってきてくれました。まあ結局ﾏﾀｲ以降目を通した事はありませんでしたが。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それでも私は日本の風習に沿って生きていたので、初詣に行っておみくじを引いたり、受験の時は大阪の北野天満宮にお参りに行く等、今から考えると知らないという事は何という罪なんだろうという日々を送っていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;イエス様に対しても信仰を持った訳でもなく、当然救われた訳でもなかったので、私はまだ罪の中にいたのです。それを目覚めさせてくれる出来事が起こ りました。それは、お祈りが聞かれたのでは無く、聞かれなかったという形でです。今から思い起こせばもう何をお祈りしていたかも忘れてしまいましたが、多 分自分勝手な事だっただろうと思います。それでも全てが願った様に思ったようになるのが当然であった人生を歩んで来た私にはかなりのｼｮｯｸでした。とい うよりも神を知らなく傲慢であった私には憤慨する事でした。なんと奢り高ぶった感情でしょうか。「神様は私の事なんてどうでもいいんだ。こんなに心からお 願いしたのに、もうそれなら今日からお祈りなんてしない。」と毎晩のお祈りを止めてしまいました。とんでもないﾌﾟﾗｲﾄﾞだらけの人間だったと思いま す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それでも神のご計画は私の理知を超えたすばらしいもので、日本で教会とは全く縁の無い生活を送っていた私も仕事をするようになって、海外出張でイギ リスに行った時仕事の一環で現地のｱﾝｸﾞﾘｶﾝや英国教会等に留学生を連れて行く事などがありました、そこで又私はふと疑問に陥ったのです。「神様は本 当にいるのかもしれない。」でも日本に帰ると又仕事や遊びに忙しくて楽しい日々が待っており、疑問に対しての答えをみつけようとする努力もしませんでし た。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ｵｰｽﾄﾗﾘｱにﾜｰｷﾝｸﾞﾎﾘﾃﾞｨで来る事にしました。その時、前の仕事先であった会社を通して、仕事とﾎｰﾑｽﾃｲ先を紹介して頂きました が、そのｽﾃｲ先の奥様の弟さんに当たる方がとても宣教に熱心な方で、ｸﾘｽﾁｬﾝﾕｰｽの集まりや家庭集会にいつも呼ばれ、話しを聞いたり、ﾋﾞﾃﾞｵ を観たり、今は私の主人となったいつも励ましてくれる素晴らしいｸﾘｽﾁｬﾝの友に恵まれ、「神様が本当にいるのなら私はそれをみつけなければならない、 真実を知らなければいけない。」と思いました。それからは聖書を読んだり、信徒の集まりに参加して懸命に学ぼうとしました。そして間もなくしてｼﾄﾞﾆｰ の教会で牧師の説教後、讃美をしている時に、聖霊が私に下りました。涙で溢れながらも主に対する讃美が止められませんでした。1989年4月の第3日曜日 でした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私は罪人だと言われる度に心の中で、私は他の人に比べたら、いつも他人の事を思いやってきたし特に悪い事もしていない、困った人、独りぼっちの人に はいつも手を差し伸べてきた、勿論他の人の証で聞くようなﾄﾞﾗｯｸﾞなんてやった事もない。割と良い人間だとまだ思っていました。でもそれは33年の生 涯を全く罪を犯す事無く神の為にだけ生きたイエス様に比べると何と罪に浸った人生だったでしょう。大した事ないと思う嘘、妬み、怒り、たとえ口に出さなく ても思うだけでも十分に罪になる感情、知らずに人を傷つけた言葉など、考え出したらきりがありません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;でも主イエスキリスト様は私を救って下さったのです。ｸﾘｽﾁｬﾝになった故失った物もあります。信仰に入る前と後では価値観も大きくかわりました。でもイエス様に頂いた恵みと平安に比べたら全てが色褪せて見えます。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ｶﾞﾗﾃﾔ人への手紙 6:14 私には、私達の主イエス キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;聖霊に満たされた5ヶ月後の9月に洗礼を受けました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;&lt;br /&gt; ｺﾘﾝﾄ人への手紙 第二 誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;主の恵みと栄光に感謝致します。アーメン&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-1459638745269328828?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/1459638745269328828/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=1459638745269328828' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/1459638745269328828'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/1459638745269328828'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/200510mh.html' title='2005年10月　M・H姉のあかし'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-992839080040295521</id><published>2007-03-05T18:41:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T19:05:47.539+09:00</updated><title type='text'>2005年８月　Ｓ・Ｎ姉</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;わたしが初めてキリスト教に触れたのは、小学校のころ通っていた日曜学校です。もう50年以上も前のことですが、秋田市のわたしの実家の近くにカト リックのミッションスクールができました。短期大学、付属高校、付属中学、付属幼稚園とあって、妹と弟がそこの幼稚園に通っていた関係からか、時々そこに 遊びに行くようになり、先生に誘われて、日曜学校に行くようになったのではなかったかと思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ちなみにわたしの実家は典型的な日本人家庭で、元日には神社に初詣に、お盆にはお寺に墓参りに行っておりました。その上、商売をやっていましたの で、茶の間には神棚があり、朝起きると神棚を拝んでから朝ご飯を食べる、という習慣になっていました。物心つくころからわたしたちきょうだいは両親に言わ れて毎朝、神棚を拝んでいましたが、わたしは日曜学校でイエス様の話を聞いているうちに、家の神棚には何があるのだろう、本当に神様が上っているのだろう か、という疑問がわいてきて、ある時から神棚は拝まなくなりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;日曜学校はとても楽しいものでした。カトリックですから、シスターと呼ばれている先生たちは黒いガウンのようなものを着て、とても優しかったので す。たまに子どもたちを校内にある礼拝に連れて行ってくれましたが、そこはちょっと薄暗く厳粛な感じのするところでした。日曜学校にはしばらく通いました が、小学校も高学年になり、用事ができたり、友達と遊ぶのに忙しくなって、自然と足は遠のいてしまいました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そうして10年近くの月日が流れ、20歳の時、わたしは卒業した学校に残って、助手兼事務員として働いていました。20代というのは若さと希望に満 ちた年代ですが、逆にこれからの自分の人生をどのようにして生きていったらよいのかという悩みの年代でもあります。わたしの場合は仕事の悩みとそれに恋愛 の悩みが重なって、うつうつとした日々を過ごしていました。そうしたある日わたしは「そうだ、教会に行こう」と思いました。日曜学校のころの神様に見守ら れている気持ちを思い出し、また教会に行けば良い解決の道が示されるかもしれない、という思いがあったのだと思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それである時、休み時間に事務室の隣の机に座っていた先生に、「先生、わたし、教会に行きたいのですが、この辺りに教会があるか知っていますか？」 と聞きました。そうしたらその先生は、何と、「わたし、教会に行っているのよ、じゃあ、今度の日曜日に一緒に行きましょう」と言ってくれたのです。今思う と、神様は何とよく時にかなった備えをしてくれていたのだろうかと思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;次の日曜日に連れて行ってくれたところは、家から歩いて７、８分ほどのプロテスタントの教会でした。そして初めて大人の礼拝に出た時には、なぜかと ても懐かしく、わたしの居る場所がここにあるという思いがしました。わたしを教会に連れて行ってくれた先生は、いろいろなことを教えてくれましたし、青年 会はとても活発で、すぐ仲間に入れてくれて、こうしてわたしの教会生活が始まりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;仕事上の悩みは１年でそこの学校を辞めることでけりがつき、恋愛も失恋に終わって、しばらく落ち込む日が続きましたが、これらのことが教会に足を運ぶきっかけになったのですから今にして思うと大いなる恵みだったのかもしれません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;洗礼を受けることについては、何となく恐れ多くて口には出せないでおりましたら、ある日牧師先生が「そろそろ洗礼を受けませんか」と言ってくれてお願いすることができました。22歳になって間もなくのイースターの時でした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;今、振り返ってみると、聖書の中のこのみことばに心動かされたとか、お説教のあの部分が受洗を決意させた、という決定的なおのはありませんでした。 最初に洗礼ありきだったような気がします。お恥ずかしい話ですが、キリストの十字架のあがないの本当の意味を知ったのはずっと後のことですし、新約聖書は 持っていましたが、旧新約聖書を買って創世記から読み始めたのは、何と、受洗後、20年もたってからです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;霊の目が開かれたのは、またさらに後のことで、歩みの遅いわたしは、神様の目には歯がゆく映っているかもしれません。でも神様は忍耐のお方ですから、粘り強く訓練し、また試練に耐える力を少しずつ与えてくれていることを思い、感謝しています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;詩篇119篇105節に「あなたのみことばは、わたしの光、わたしの歩みを照らすともしび」とあります。この光とともしびがある限り、主の備えてくれている道を逸れることなく進めると確信しています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-992839080040295521?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/992839080040295521/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=992839080040295521' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/992839080040295521'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/992839080040295521'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/2005_7538.html' title='2005年８月　Ｓ・Ｎ姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-3551413069279224857</id><published>2007-03-05T18:40:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T19:05:18.507+09:00</updated><title type='text'>2005年７月　Y・T姉のあかし</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私が洗礼を受けましたのは、小学校に入る前のことでした。それは自分の気持ちで洗礼を受けたのではなく、私の父がそういう気持ちになったから、なのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私の父は、学生時代から「外国に行って世界中をまわりたい」というのが夢でした。父は、会社員として神戸に住んでいたのですが、外国に行くには英会話がで きなければならないということで、友達から、近所にある下山手教会という所で、イギリス人の先生が英語を教えてくださる、それもただで教えてくださる、と の話を聞きました。そこで父は教会に出かけて、英会話教室に行ってみましたら、来ている方たちのほとんどがイギリス人で、英語で聖書のお話をする教室だっ たらしいのです。初めは父も戸惑ったらしいのですが、聞いているうちに、先生の上手なお話に魅せられていきました。そして聖書を英語で学んでいるうちに、 日本語の教会に行った方がいい、家族も連れていった方がいい、ということになり、母とまだ小学校に行く前だった私を連れて、下山手教会の礼拝に出席するよ うになりました。そして教会に行っているうちに、導かれ、クリスチャンになって、洗礼を受けることになったのでした。これが父の大切にしていた聖書で、こ こに父のサインがあり、February, 14, 1926と書いてあります。つまり父と私たちは1926年２月14日に洗礼を受けました。これはその日の日付です。ですから今から約80年近く前の話にな ります。それから父は教会でのお話に満たされて、ずっと教会に行くようになりました。母も少しずつ導かれていくようになりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;その頃の牧師先生は日野原善輔先生という、「日本の七人の名説教の一人」と言われた方でした。その息子さんが聖路加病院の院長先生をしていらっしゃった日 野原重明さんで、本当に素晴らしい方なのですが、当時、私も子どもでしたので、「日野原のお兄ちゃん、お兄ちゃん」と言ってよく可愛がって遊んでもらって いました。そしてその日野原先生が、今度は広島の流川教会というところに呼ばれてそちらに行かれました。不思議なことにその流川教会には、私の主人の母や 子どもたちが通っており、日野原先生に洗礼を受けたりしました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;父は世界を見たいという望みをいつも神様にお祈りしていましたら、それがかなう日がやってきました。一年間かけて、昭和12年でしたでしょうか、世界一周 しました。お砂糖の会社に勤めていまして、今、皆さんが食べているグラニュー糖の作り方を発明したものですから、会社から「重役にして家族が一生暮らして いけるだけのお金をあげよう」と言われたのですが、父は、重役になんかなりたくない、今のままの工場長でいいが、一年間の有給休暇をもらって世界一周をし たい、とお願いしたのでした。そういうことで世界を一周して、いろいろなところの教会をまわってそして礼拝に出て、さまざまな恵みを得て一年して帰ってき ました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そしていろいろなことがありましたが、私は結婚して広島に行き、父と母は東京で銀座教会に行っておりました。私どもが東京に戻った時、父は病気で、腸のガ ンだったのですが、もう幾らも生きられないと自分で思ったのでしょう。私の娘がその時小学校一年生でしたけれども、私と母とを枕もとに呼んで、「聖書を開 きなさい」と言って、コリント前書の13章4節「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕（たかぶ）らず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤 ほらず、人の惡を念はず、不義を喜ばすして、眞理の喜ぶところを喜び、凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。愛は長久（い つ）までも絶ゆることなし。」ここの所は赤く線が引いてありますけれども、「このみことばをいつも心に入れてそして暮らすんだよ」というのが父の最期の言 葉でした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私は本当のそのみことばをいつも心に入れておりますけど、私のような者でも神様は捕まえていてくださって、そして結婚して広島に行って、あの恐ろしい原爆 の時も一家が助かりましたのは、神様のお恵みで、本当に神様を信じてよかったと思います。主人の母もとても信仰深い人で、瓦礫（がれき）の下敷きになって も神様が助け出してくださいました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私は、今まで数知れない神様のお救いをいただいて、この85歳まで生きてくることができました。皆さんも本当に神様に祈って、困った時は「神様、お願いし ます」と、そしてかなえられた時は「ありがとうございます」と言って、毎日を心明るく過ごしたら、いい人生になると思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-3551413069279224857?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/3551413069279224857/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=3551413069279224857' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3551413069279224857'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3551413069279224857'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/2005yt.html' title='2005年７月　Y・T姉のあかし'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-6387529729813723187</id><published>2007-03-05T18:39:00.003+09:00</published><updated>2007-03-05T19:00:03.376+09:00</updated><title type='text'>2005年６月　S・S姉のあかし</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私は東京都清瀬市に生まれ、約２歳から４歳まで父の仕事の関係上家族でアメリカのカリフォルニア州に住んでいました。その時、父が私達家族を教会に連れて行き、幼かったので全く覚えてはいませんが、それが初めての教会出席だったと思います。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;日本に帰国し、昭島市に住むようになり何年か経ちました。姉が小学校の同級生に誘われ近所のとても小さな教会に行くようになり、私が小学校１年生く らいの時に姉に連れられて日曜学校に通うようになりました。それから母もその教会に通うようになりました。姉は何年も毎週熱心に通っていたのですが、私は 小学校３年生くらいになってからはお友達に日曜日に誘われると、遊びに行ってしまう程度の信仰でした。でも幼心にもイエス様を神様だと信じていて、何かお 願い事がある時など、なんとなくお祈りをしていた記憶があります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;小学校５年生の時に八王子市に引越し、私も母も教会から、しばらく離れていました。&lt;br /&gt;ただ時々、昭島の教会の牧師夫妻がわざわざ私達の為に聖書のお話やお祈りをする為に来て下さっておりました。（姉だけは、昭島市のミッションスクールに引 き続き通っていたので学校で毎週礼拝はしていたと思います。）これも神様のお導きだと思いますが、母の職場の同僚の人がクリスチャンで私達の家の近くの教 会に通っていることを知り、また私が中学１年生の後半から母、姉、私の３人で毎週教会に通うようになりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私は引き続き母と姉に連れられ、中学、高校生になっても習慣のように教会に通っていました。神様は信じていて、自分が必要の時にはお祈りはしていた のですが、洗礼を受ける決心はつきませんでした。特別礼拝などの時に、牧師先生が「神様を自分の救い主として信じ、洗礼を受けたいと思う人は、手を上げて 下さい。私が、あなたの為に祈りますから。」とおっしゃるのですが、何度も何度もいろいろな機会にチャレンジを受けたのですが、いつも私の心の中では「イ エス様、私はあなたを信じていますが手を上げられません…。」というふうにどうしても手が上げられませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;しばらくそんな状態が続き私は高校３年生になりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ある土曜日の昼、私の部屋のベッドに姉と２人で寝そべっておしゃべりをしていた時に、何を話していたのか覚えてはいませんが、イエス様が私の罪の身 代わりとなって十字架に架かって死んで下さったこと、また以前から神様が存在するというのは頭では分かっていたのですが、本当に心に強く迫ってくるような 実感が与えられ、洗礼を受ける決心というか、背中から押されるような感じで洗礼へと導かれていきました。その次の日の礼拝でまたいつものように牧師先生が 「イエス・キリストを自分の救い主として信じ、洗礼を受けたいと思う人は、手を上げて下さい。私が、あなたの為に祈りますから。」とおっしゃった時に、私 は素直に手を上げられました。牧師先生に祈って頂いた後、しばらく講談の前で、自分一人で祈っていた時、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;詩篇１２１編５節～８節（口語訳聖書）：主はあなたを守ってすべての災を免れさせ、また、あなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまであなたの出ると入るとを、守られるであろう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;というみことばが強く心に迫って来て、私はイエス様に本当に守られているという確信と平安で心が一杯になり、しばらくの間、嬉しさで涙が溢れ出できてそのまま祈り続けていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そして、私はその年のイースターに洗礼を受けました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;私の救いの為に、姉、母また教会の牧師先生など、何年も祈り続けて下さり洗礼を受けることができ本当に感謝しております。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;振り返ってみると、もし父がアメリカに転勤にならなければ、教会に行くというきっかけもなかったでしょうし、母が職場でクリスチャンの人と出会わな ければ、そのまま教会から離れていたかもしれません。神様がこんな小さな私を選んで、何年もずっと導いて下さり、救われたのだなと本当に感謝しておりま す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-6387529729813723187?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/6387529729813723187/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=6387529729813723187' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/6387529729813723187'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/6387529729813723187'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/2005ss.html' title='2005年６月　S・S姉のあかし'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-3374127668647360541</id><published>2007-03-05T18:39:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T18:59:35.491+09:00</updated><title type='text'>2005年５月　Ｈ・Ｋ姉</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;聖書を開くと、この恵みと平安という言葉が、随所に出てきます。わたしが長い間、探し、求めていたものが聖書にありました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;わたしの性格を一言でいうとすれば、楽天的で、まじめでいいかげん、といったところでしょうか。楽しいことが大好きで、突き詰めることが大の苦手です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;10代のころは、友達とばか騒ぎをしていてもどこかで人生なんてそんなに大したもんじゃないな、と、もうあきらめていたところがありました。ただ、理想も根拠のない自信もあり、いつかは立派な大人になると信じていました。それは社会的でもあり、道徳的でもありました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そんな大それた思いが、少しずつ実際の自分とどんどん離れていくことを、20代は、認めなくてはいけないようになってきました。社会的にはどこにでもいる１人の女性。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;30歳の時、オーストラリアにガイドとして働くために面接を受けた時、面接官が「10年後は何をしていると思いますか？」と尋ねました。「何をして いるか分かりませんが、自分が好きな自分になっていたいと思います」と、とっさではありますが、そう答えた時は、まだわたしは信じていました。自分が望む 自分にはなえるはずだ、と。ところがそれさえもわたしにとっては簡単なことではありませんでした。自分が好きな自分にいつまでたってもなれないのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;最後の望みは子どもが生まれた時でした。わたしにとって、掛け替えのない子どもが生まれた。自分よりも大事なものが生まれた。どんな犠牲を払ってでも守るべき愛する息子。母として、満足する自分になれるはず。これがわたしが成長できる最後の機会ではないか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;しかし相変わらず短気で、わがままで我慢のない甘えた自分がいました。わたしは変わらない、と感じた時、わたしは途方に暮れました。自分が甘えるこ とのできる、母と主人には（本当に今思うと申し訳ない気持ちでいっぱいですが）、難癖をつけては当たっていました。情緒不安定になり、精神安定剤を飲まな ければ眠れないし、すぐ泣いたり怒ったり不安になったりして感情が抑えられませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;どこにいても、何をしていても、誰といても（子どもは別ですが）、安らぎがありませんでした。それも自分の未熟さが原因かと思うと、もう生きている 間この状態は変わらないと思うと、落ちるところまで落ちてしまいたい衝動にも駆られました。それでも、子どももいるので、この状況から何とか抜け出さなけ れば、と、いろいろな試みをしました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;前世が悪いのか、トラウマがあるのだろうかと真剣に悩み、これは魂を磨かなくてはとさまざまな本を読み、試み、風水も調べ実行しましたし、石のパ ワーに頼り、肌身離さず身に着けたり、気功で気の流れを良くしようともしました。占いに通い、悪いものを取り除いてもらったり、白魔術なるものを行いもし ました。細木数子さんの本も手放せませんでした。一時的にはどれもポジティブになるのですが、不安定な状況は変わりませんでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そして最後に思ったのが、精神科のカウンセリングを受けるか、その前から気になっていた教会に足を運ぶかでした。友達の友達が、毎週日本人教会に 行っているよと聞き、１カ月ほど悩み、2004年５月23日、初めて礼拝に参加しました。最初の日は正直なところ、何もかもに驚いただけでした。３度目の 聖餐（さん）式で、ブルース先生が、イエス様がわたしたちの代わりに罪を負って十字架にかけられた、と静かに語られた時、涙がこぼれました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それから、毎日毎日、自分が変わっていくのが分かりました。そして教会で貸してもらう本を読むと、随所にはっと思い当たることが出てきたりして教え られている、と感じました。日曜ごとに教会に行っては、わたしは神様に愛されている、と思うことで、わたしの心は落ち着いていきました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それまでは、主人が出張に行くと（月に１度はあります）、夜は不安で仕方なく、ほとんど眠れないばかりか、洋服を着たまま、車の鍵とかばんを手元に 置き、携帯は警察署のナンバーにセットし、誰かが来たら、どこへどう逃げようかとばかり考え、少しの物音で何度も鍵をチェックするありさまでした。それ が、教会に行き始めてからは、神様が守ってくださる、そしてもし何かが起こるとすれば、それはわたしに必要だからだと思うようになり、全く不安がなくなり ました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;６月に３週間、日本に帰った時も、変えるたびにいつも両親とけんかしてしまい険悪な状況に必ず何日かなってしまうのに、今回は、ただただ両親の愛に 感謝し、今までの勝手な自分を反省するばかりでした。そして母は、わたしが教会に行って変わりつつあるというと、心から喜んでくれました。わたしのことを とても心配していたのです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それから、子どもの学校での心配事、家庭の不和、毎日の倦怠（けんたい）感。そういったものが一つずつ解決していきました。今まで自分が悩んでいたことの大半は、自分が原因だったのだと気付かされました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;10月31日に、幸せにも、多くの兄弟姉妹に見守られて洗礼を受けました。まだまだつたないわたしは、今も悩み、迷い、後悔し、反省したりの忙しい 毎日を送ってはいますが、教会に来始めて８カ月、薬も１度も飲んでいませんし、主人とけんかもしていません（痴話げんかは、ほんのたまにありましたが）。 そしてこれからももっともっと、主が安らぎの中にわたしを引き上げてくださることを信じ、感謝の気持ちでいっぱいです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。今、わた しが肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をお捨てになった神の御子（みこ）を信じる信仰によっているのです。（ガラテヤ人への 手紙２章20節）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;今、わたしは、主とともに本当の平安と恵みの中で生きています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-3374127668647360541?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/3374127668647360541/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=3374127668647360541' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3374127668647360541'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/3374127668647360541'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/2005_05.html' title='2005年５月　Ｈ・Ｋ姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-6200792239814122790.post-577584419747708569</id><published>2007-03-05T18:38:00.001+09:00</published><updated>2007-03-05T18:59:07.035+09:00</updated><title type='text'>2005年４月　Ｍ・Ｋ姉</title><content type='html'>&lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;今日このような機会を与えていただいたことに感謝します。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;最初に聖書を読ませていただきます。今年になって、このみことばは何度となくわたしの頭をよぎっています。イザヤ書51章１節です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。&lt;br /&gt; 　わたしに聞け。&lt;br /&gt; 　あなたがたの切り出された岩。&lt;br /&gt; 　掘り出された穴を見よ。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ご多分に漏れずわたしも、キリスト教や教会とは無縁の生活を、双子の子どもが与えられるまで送っていました。わたしには、３人の子どもがおります が、２番目と３番目の子どもが双子として与えられました。無我夢中で育てていましたが、はいはいをしたり、よちよち歩きをしたりと、目が離せなくなるころ から、この子たちを育てるのは、大変なことだと、思わされてきました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;本人たちにとっては、単なる遊びなのですが、さまざまなことをしでかし、その後始末に追われて「こんなこといつまで続くんだろう。疲れたなあ．．．」という思いが湧いて出てくるようになりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;その当時のわたしは、完ぺき主義者でないにしろ「物事はこうならねばならない」という、頑固な思いにとらわれているようなところがあり、また、育児 も子どもの個性などは無視して、わたし自身が扱いやすいように子どもをコントロールしていた、と思います。「こうあらねばならない」という理想と、とんで もないことをやらかしてくれる現実とのギャップに、だんだん育児に対する自身もなくなってきました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;どうせ何をしても駄目だ、何の意味もない、と思い始め、そうなると、今まで生きてきた自分の人生まで、何だったんだろう、と思い始めました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;何のために一生懸命やってきたのか、これから先、こんな状態でどうやって生きていけばいいのか、と混迷の中に陥っていきました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そんな時、「ピンポーン！」と、にこやかな笑顔とともにやって来たのが、エホバの証人でした。"聖書"という言葉と温かそうな人柄に引かれ、つい彼 らの話を熱心に聞いてしまいました。そして、わたしが抱えている問題も解決できそうな気がし、彼らの言うところの"研究生"となり、１年余りエホバの証人 の教理を勉強しました。常々、不満に思っていることや、疑問に思っていることなどを聖書を通して説明してもらうと、いちいち納得がいき、これは本当の真理 だと思い、エホバの証人になって、家々を回ろうと決心するほどにまでなりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;そんな中でも疑問に思っていることがありましたが、それは「イエス・キリストは神か否か」ということでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;キリスト教理に少し触れたことのある主人に聞いてみると、「普通の教会では、キリストは神だというよ」と、答えが返ってきました。エホバの証人の教 えは、神ではなく神に造られた第一号がイエス・キリストということでした。つまりキリストは創造物ということです。わたしはびっくり仰天しました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;これは、普通の教会に行って、どちらが本当かを確かめてみなくてはいけないと思い、近くの教会に行きました。会堂の中に入っていき、あいさつなどを 済ませていると、何ともいえない温かいものに包まれてきました。それは、一陣の風が吹いてきて、わたしを包み、そして駆け抜けていったような感じでした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;わたしの心の中の気負いや突っ張ったものが解け去り、「なーんだ、こっちじゃないの」と、へたへたと腰が抜けて座り込みそうな思いになりました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;2000年前、カルバリーで示された愛が、営々と受け継がれ、そのままそっくりそこにあることが感じられましたし、その2000年間の"時の流れ"のようなものも感じました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;それからは、エホバの証人との勉強もやめ、教会に通うようになりました。教会に通うようになり、罪や十字架でのあがないが分かり、天国への希望を持 てるようになりました。すべての罪を思いつく限り書き出し、こんな罪深いわたしのために十字架を忍んでくださったイエス様に、全人生をかけていくことを決 意し、 1989年に受洗しました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;早いもので、受洗して16年目になります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;冒頭のみことばは、自分がどんなところから掘り出されたのか、どんな者だったのかをわたしに思い起こさせてくれます。「イエス様ありがとうございま す。わたしを救ってくださって、感謝しています」と、こんな言葉では言い表せないのですが、恩義に思って生きているのに、つい不平不満を募らせてしまいま す。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;特にここ２、３年は、日曜ごとの礼拝も守れない状況が続いたり、聖書が思うように読めなかったり、人と接する中で、神様の存在がどんどん遠ざかっていくような感じを持ちました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;自分が疎ましい者のように思われたり、"百害あって一利なし"のような存在で、何の役にも立たないのに、人を傷付けてばかりいると思わされ、心が元 気を失い、疲れ果てているような苦しみを感じていました。アリ地獄にはまったような気分で、じたばたすればするほど破滅に近づいていくような、絶望的な気 分を引きずっていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;今でもそんな気持ちを持て余すことがありますが、さぞ掘り出しにくかったわたしだろうに、そんなわたしを掘り出してくださり、今まで導いてくださった神様は、これからも助けてくださる、と心に覚えさせています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;また最近、福田牧師が下さった賛美の曲を聴いていた時、こんな状況の中にいるのは、捕らわれの棺おけの中にいるようなものだと感じました。知らないうちに眠らされていたこと、また賛美によって目覚めさせられると感じました。　　　&lt;br /&gt; いろいろなことが起こってきて気持ちをくじかされることがありますが、自分に与えられているところを全うしていけるように願っています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;最後にわたしの今年のみことばをお読みして終わります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ヘブル人への手紙12章節ですが、２節からお読みします。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに 十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を 失い、疲れ果ててしまわないためです。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p&gt;&lt;span style="font-size:130%;"&gt;ありがとうございました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/6200792239814122790-577584419747708569?l=gcjc-testimony.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/feeds/577584419747708569/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='https://www.blogger.com/comment.g?blogID=6200792239814122790&amp;postID=577584419747708569' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/577584419747708569'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/6200792239814122790/posts/default/577584419747708569'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gcjc-testimony.blogspot.com/2007/03/2005.html' title='2005年４月　Ｍ・Ｋ姉'/><author><name>GCJC</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:extendedProperty xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' name='OpenSocialUserId' value='16052332174060919709'/></author><thr:total xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'>0</thr:total></entry></feed>